人生実験室

心にうつりゆくよしなしごとを

言葉

きっかけとこれから

 

 

高校2年生の春、国語の授業で寺山修司の『ポケットに名言を』の「言葉を友人に持とう 私にとって名言とは何であったか」を扱った。

本文の後にある学習の手引きで「言葉を友人に持」つとはどういうことか、と問いがあった。教科書のメモ書きには「一言でいうと、現実を変革する可能性に賭けるため。筆者は詩人で、何をするにしても言葉はつきまとう存在だから、それなら友人のほうがいい。」と書かれていた。

なんだか悲しくなった。これは先生の言葉か、私の言葉か。どちらにせよ、この言葉を選んで書いたのは私だ。詩人でなくても、生きている中で言葉は必要不可欠。今の私なら何て答えるかな、などと考え始めて、既に1週間以上経っている。

 

最近、この本を何度も読み返しては考え込んでいる。きっかけは、距離が少し近い人から、私の好きな言葉を悪く言われたこと。それ以来ずっと「私にとっての言葉って何だろう」と思考を巡らせているわけですが、綺麗に答えがでない。

こういう時に思い出すのが、大學の某教授の話。

「国語が得意な人は、人一倍言葉に対して敏感。少しのことで傷ついたりする。」

さっきあげた書にも「言葉は凶器であり、薬でもある。」みたいなことが書かれている。

 

あなたにとって、言葉は何ですか?

どういう目的で使いますか?意思疎通のため、とひとことだけで括りますか?

それ以上の何かを求めますか?

 

 

 

 

 

 

 

寺山修司と恩師(上記の授業を担当してくれた先生)のおかげで、私は今、文学部日本文学科で日本語学を中心に学んでいる。

 

 

国語が大嫌いだった。学ぶ必要なんてないとずっと思っていた。

国語の勉強なんて無駄、といつも言いながら真面目に勉強せず、授業は言われた通りに板書を写して終わり。でも、母の影響で本は少しだけ読んでいた。

 

 

恩師は3年間担任であり、国語の授業も担当してくれた。第一志望の高校に落ちて仕方なく併願校に入学した私は、完全にやる気を喪失していた。クラスのオリエンテーションで恩師が「国語はやれば出来るんですよ。やらないと出来ないけど。」と話していた。なぜかその時少しだけ「間抜けに見える先生だけど、ちょっとだけお話してみたいな」と思い、その日のうちに恩師のもとへ行って話をした。「先生、私、いままで国語を勉強してきませんでした。どうやって勉強すればいいのか全く分かりません。教えてください。」

それ以来先生をたくさん困らせた。授業内外でたくさん質問したし、求めている以上にこたえてくれた。おかげで国語を専門に学ぼうと思えるほどの学力はついた。

 

昔から言葉を大事にしたい気持ちはあったが、日本語学を専攻する気はなかった。日本語学に興味を持てたのも恩師のおかげだ。

昔から話すことが苦手だった。人前で話すのも苦手で、幼馴染曰く「幼稚園の頃は『うん!』しか言わない子だった」らしい。よくここまで話せるようになったな、と我ながら感心している。中学生の頃から場面に応じて適切な表現をしたいと思っていた。それ以来、言葉には常に敏感になっていた。そう言いながらなんだかんだで普通に話せているだろうと思い込んでいたから、特別なことは何もしてこなかったし、勉強も疎かにしていた。

 

恩師は授業中、とにかく雑談をする人だった。授業に全く触れない時間も多かった。進学校であれば、こんな授業は展開できなかっただろうな。

「『私は』と『私が』の違いって知ってる?」

確か、「読んだ本にこんなことが書いてあって~」と話を続けていたような気がする。

勉強から逃げてきた私には衝撃的だった。

日本語について全く理解できていない事実と、奥が深いことと。

面談で「この話がきっかけで日本語の文法に興味を持ちました。」と伝えたら、井上ひさしの『私家版 日本語文法』をおすすめしてくれた。この本が本当に面白くて。

もっと知りたい!知らなきゃ!の延長で今の学科にいる。

 

 

 

 

恩師のお話をしたから、次は寺山のお話。

 

 

冒頭にあげた作品がきっかけで、文学そのものに興味を持った。

言葉をもっと学びたい気持ちが強まったし、多くの本を読むようになった。

寺山修司の世界は私の未知がたくさん広がっていて、知れば知るほど興奮が止まらない。

『ポケットに名言を』の意味が、ポケットに名言を入れて持ち運べるといいね~的なニュアンスだった気がする。高校時代はこの本をずっと通学カバンのポケットにしまい、何度も読み返した。読むたびに言葉がどんどん体中を流れていくような感覚がした。

 

私の漠然とした思いを、寺山が言葉にして表してくれたんじゃないか。と、今は思う。

 

よく「寺山の作品は他人のパクリだ」などと言われている。確かにそう捉えられる部分は多い。

だから何だ。

私は、他人の良いとこどりをして自分のものにしてしまえば、「自分らしさ」になると信じている(そう言い聞かせている部分は少なからずある)。

他人の良いところを良しとみることができる人間なら、それにプラスの感情を抱き、憧れに繋がることもあるのではないか。私もあなたも完璧な人間じゃないんだから、そりゃあ自分のものにしたくなるでしょ、と思うわけです。

素敵な部分を独り占めするなんて、ずるい。

 

 

寺山の話はまた後日たんまりするとして……

 

私は本を少ししか読んでこなかった。国語は熱心に取り組まなかった。でも、何かを常に考えていて、自分の脳内を言語化してくれたのが寺山修司だった。

もっと彼を知りたい。知ることで自分を確立できる気がする。

だから文学をやろうと思った。

 

 

ここまでが、今の学科・専攻まで来た理由。

 

今後どうしたいのか、何を目指しているのかについても書きたい。

 

 

 

 

一言でいうと、魔法使いならぬ、言葉使いになりたい。

恩師や寺山、たくさんの人の「言葉」に何度も救われてきた。

次は私が誰かを救いたい。

『ポケットに名言を』にある通り、薬や凶器のように言葉を扱いたい。

そのためには、多くの経験や知識を得て、場面や人に合わせて使い分けられるようにならないといけない。

自分を他人化するには、一つの人生だと足りない。だから、本を読み、話を聞く。

そもそも自分の考え方が嫌いで、いつも同じ考え方や言葉選びしかできないような気が、今でもする。それを改善するには自分以外のものが必要。

 

私の言葉に対する思いは中途半端なものではない。故に今持ち合わせている言葉で思考をすべて表現、説明ができない。

だから、こうして書くことで「今の自分」を記録しようと考えた。

今年の年末やいつかくる卒業時に、ここからどれくらい変化、成長したかもわかると思うしね。

 

 

 

 

よければ、あなたにとって言葉は何か、教えてください。

 

今年もよろしくお願いします。

 

 

 

まわりの言葉

今日帰りの電車で降車した時のアナウンスが忘れられなくて、追記するに至った。

「本日もご苦労様でした。この先もお気をつけてお帰りください。」

こんな内容だった、ような、、。

仕事だから仕方なく発言したとしても、とてもうれしい声かけだったな~と思うと同時に、車掌さんこそお疲れ様です、という気持ちになった。

みんな誰かに支えられて、誰かを支えて生きている。

自分は何の役にも立てていない、と思っているかもしれない。誰かのためになりたい、優しい心の持ち主であるあなたは特に、自分の力に気づいていない。

 

前半でも話したが、言葉ひとつで人は救われたり傷つけられたりしている。

何が怖いって、それを話者が気づけるのに限界があること。

その怖さを伝えるために今文字にしているんじゃなくて……

(また今度いろいろお話出来たらしようかな)

 

私はあなたの言葉に救われているんだよって言いたい。これを読んでくれているあなたです。読んでくれていないあなたにも伝えたいけど、今はとりあえずネット世界に放り投げることにして、今度直接伝えます。

 

だから、自分に何もないとか、不要な存在だとか思わないでほしい。

私はあなたを必要としているし、私以外にも救われている人はきっといるはず。

優しいあなたは、これからも誰かのためになれるし、何者かにもなれると思う。けど、この言葉に自信と責任は持てません。ごめんなさい。

 

 

またきっかけがあれば追記するのでよろしくお願いします~